第一話  その1

夏王朝 621年
その年の夏は、異常に暑い年だった。
作物は枯れ、水は不足し、食べ物は高騰の一途をたどった。
貴族は、食べるものがあったとしても、庶民の口にはほとんど入る事はなかった。
そこら中で、空腹者が王室から支給される配給場所で列をなしていた。
それでも、国民の少数にしか行き渡らなかった。
その庶民の怒りが、王族・貴族へと向けられていった。
そんな民中の現状を知らないのは、宮殿の中でだけの自由をゆるされている皇族。
そして貴族のご子息・令嬢達。
毎日のように、宮殿では晩餐会が営まわれて贅沢に食事をしていた。
そんな中でも、今日はさらに特別な料理が机を彩っていた。
今日は、夏王国第一皇太子である、蒼翔と、大貴族である蘭華との婚約披露パーティだからだ。
全員が、絢爛豪華な服に身を包み、主役達の登場を待ちわびていた。
婚約披露の会場から少し離れた一室
多くの女官が、建ち並ぶ。
部屋の中では、栗毛色の見事なまでの長く艶のある髪の少女が1人、女官達によって王侯貴族のように着飾っている。
その髪を、伝統的な髪型に結い上げられ、重たい装飾品を所狭しと着けさせられていた。

『 大貴族の娘 蘭華 』


鏡の前に座る蘭華は、次々と化粧を施されて、自分が変わっていく様を見つめた。

「お嬢様、いかがされましたか?」

メイク係のファランが、メイクをしている手を止めて、蘭華の事をマジマジと見た。
気乗りしないような、落ち込みにも似た蘭華の表情。
蘭華は大きくため息をついた。

「皇太子との婚約は、生まれた時から決まっていた事だから、今更文句なんてないのよ?皇太子は、とてもお優しい方だし。」
「お嬢様とは、ご兄妹のように共に過ごされました方。他の誰よりも、皇太子殿下の事をよくご存じなのは、蘭華お嬢様ただお一人だけですわ。」
「そうね。」

気がつけば、いつも遊び相手は、皇太子である蒼翔だった。
初めの頃は普通に兄として慕っていたのだが…10才になる時に、父親から婚約の話しを聞かされた。
その時、蒼翔に確認してみれば、蒼翔は知っていて蘭華と遊んでいたと言う。
自分だけ知らなくて、のけ者にされたような気分だった、あの頃。
さらに年月は過ぎて、皇太子が17才になったと言う事で、正式な婚約披露を行う事となった今日。
悲壮感な表情のまま、鏡に映る自分の顔を見つめた。

「本当に、こんな人生が幸せなのかしら。」
「皇太子殿下なら、この国一番に幸せにして頂けますわ。」

それは、皇太子は素晴らしいと、絶賛している女官。
自分が仕えている王族を悪く言う人はいないだろう。
恋愛もした事がない。
確かに、蒼翔の事は誰よりも好きだし、信頼もしてる。
二人だけの秘密な事も沢山ある。
でも、これが本当に「恋」と言うものなのだろうか?
書物から得る「恋物語」には、常に胸がドキドキしたり、相手の気持ちが分からなくて悲しくなったり、相手の言葉一つで嬉しくなったりする、感情の起伏が忙しい物。
だが、実際の自分は?
蘭華は自分の胸に手を当てた。
蒼翔の事を考えても、心臓が出て来そうな程に、ドキドキも痛みもしない。
ただそこにあるのは、安心感だけ。
これが現実の恋なのだろうか?
蘭華は再びため息をついた。

「随分と嬉しそうな顔をしてるな。」

ノックもなしに、扉を開けれる者は限られている。
無遠慮に部屋に入ってくる男に、周りにいた女官達は一歩下がって頭を下げた。
そんな無遠慮な男に、蘭華も立ち上がって、少しだけ膝を折り曲げて、姿勢を低くした。
そして、頭の装飾は取れない程度に、頭を軽く下げた。

『 夏王国皇太子 蒼翔 』

蒼翔は蘭華の肩に軽く手を乗せると、蘭華は頭を上げて視線を元へと戻した。
ゆっくりとした所作が、優雅に見えるのは、蘭華の整った顔立ちと教育の賜だろう。
皇太子妃として、10才のあの真実を聞いた日から、始まった皇太子妃としての勉強の毎日。
苦しい時は、いつも蒼翔が支えて、気分転換に付き合ってくれたものだ。
いつも自分だけを見る蒼翔の目は、真実を称えていた。
決して、蘭華以外の者が見る事の出来ない、本当の蒼翔でいてくれた。

「皆の者、少しの時間、蘭華と二人だけにしてくれ。」

蒼翔が命令すると、部屋の中にいた女官は、静かにその場を去って行った。
部屋には、蒼翔と蘭華だけが残った。
しばらく沈黙が続くと、蒼翔は蘭華の隣の椅子に腰を下ろした。
これもまた豪華な装飾品を身につけた格好。
大きな剣を机の上に置いて、頬杖をついて蘭華の事を見上げた。

「何が不満なんだ?言ってみろ、蘭華。」
「不満なんてございません。」
「けど、何かあるんだろう?今は誰もいない。いつも通りにしろよ。」

そう言われて、蘭華も蒼翔の隣へと腰をおろした。
目の前にいる男こそが、将来の夫となる皇太子。
肩より少し長く漆黒の髪は、サイドだけを後ろへと結んでいた。
蘭華ほどではないが、頭には似たような装飾品が着けられている。
蒼翔は、装飾品を鬱陶しそうに、位置を少しだけずらした。

「髪が引っ張られて、痛いんだ。」
「私も。頭が落ちそうな感じ。」

互いの顔を見つめ合って、クスクスと笑いだす二人。
それはまるでこれからの幸せを案じているかのようだった。
そんな蘭華の笑顔を見て、蒼翔は少し安心したように肩の力を抜いた。
蘭華の頬へと手を伸ばして、優しく輪郭をなぞった。

「どうした?浮かない顔してる。そんなにイヤか?俺の妻になるのが。」
「ううん、そうじゃないんだけど…緊張してるのかな。」
「俺は、お前以外を妻にする気はない。この宮殿の中で、信頼出来るのは、お前だけだ。」

蒼翔の真剣な眼差しを一心に受けて、蘭華はたまらずに顔をそらした。
刹那、蒼翔の悲しそうな表情は、蘭華には見る事が出来なかった。
一息飲むと、蘭華はニッコリと蒼翔に笑みを向けた。

「大丈夫。蒼翔が来てくれたから、心も落ち着いたし。戻って。私は大丈夫だから。」
「本当に?」
「うん。本当に。」

愛おしそうに、輪郭を滑っていた手は、蘭華の頬の所で止まり、軽くつねった。
何も言わずに黙って背を向ける蒼翔の背中をずっと見つめていた。
これから、この人の妻になる。
本当にいいのだろうか?
扉が閉まると、蘭華は胸に手を当てた。

「やっぱり…何も起きないのね。」

誰に言うでもなく、呟かれた言葉は音をたてて部屋に落ちた。


一方、その頃。
貴族達が集まると聞いて、ある盗賊が夜盗に入る手はずを整えていた。
狙うは、大貴族の邸宅。
主のいない屋敷は、ほとんどの使用人達が出払っている。
これ幸いと、盗みに入ろうとしていた。
入念に自分の獲物を磨き、その時刻になるのを、息を潜めて待っていた。